引きこもり

「引きこもり」から脱却するためには、どうすればよいのか。
「引きこもりの人は、心を変えてから行動を起こそうとしてはならない。行動を先に起こして、心はそれに従えるのです。」
心が勝ってから行動を起こしては、ならない。心が晴れたら行動を起こしては、ならない。自信を持ったら行動しようと思っては、ならない。なぜかというと、心は千変万化して一瞬で変わってしまうからです。心を勝ったまま、晴れたまま、自信を持ったままの不動心にすることは、誰もできないのです。このことをお釈迦様は、「心の師となるとも、心を師とせざれ」と訓戒しています。
ゆえに、心は敗れたまま、暗雲たれこめたまま、不安の心のまま、あなたの為すべき行動を起こすのです。
自分が傷つくことを恐れては、ならない。傷つくことを覚悟して、行動を起こせば道は開けるのです。
私も学生のころ、2ヶ月ほど家に引きこもりになっていたことがあります。夜には、明日は、学校に行こうと思うのですが、朝になると出かける準備をするのもおっくうになり、布団の中から出るのが辛く、寝過ごしてしまうのです。それゆえ後悔し、自分は、なんて怠け者でだめな人間なんだと卑下していたのです。それの繰り返しをしていたのでした。日蓮大聖人の新池御書に「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう」とあります。まさしく私は、この雪山の寒苦鳥そのものだったのです。この悪循環を打ち破ってくれたのは、父だったのです。ある時、父に「おまえは何をしているんだ。ちゃんと学校へ行け!」と厳しく叱られました。そのとき、自分は父に厳しく叱られなければならないほど、だめな人間に落ちぶれたんだなと悟りました。「よし、もう一度やり直そう。死んだつもりで」と決意し、ここ2ヶ月間やってなかった勤行唱題(法華経の経文を読み南無妙法蓮華経と題目を唱える修行)をしたのです。そして、日蓮大聖人の仏法を実践する根本的心構えである「所詮、臨終只今にありと解りて」。今、自分は何を為さねばならないのかと自問した時、その答えは、針の筵(むしろ)である学校に行くことだった。その決意で学校に行ったら、クラスメートは、「どうしたんだ。心配してたぞ」と暖かく迎えてくれた。その日から「引きこもり」は終わり、学校に行けるようになったのです。

 ところで、引きこもりの人の中に親に暴力を振るったり、自宅の窓や壁を壊したりしている人がいるらしいが、そのような人は、自分で自分をおとしめている臆病者である。そのような行為は、自己破壊とどうしようもないほどの後悔と自己嫌悪を生むだけである。自分のやっている事を人間として最も恥ずかしい行いと思うことです。世間でも仏法においても一番大事な徳目として「父母に孝養あるべし」と説いているのです。また、仏法では、「恩知らずは、人とは呼ばない」と厳しく非難しているのです。なぜなら、生死ともに地獄に落ちるのは、間違いないからです。深く深く反省することです。この罪は、どのように悔いても消えないのですが、末法御本仏日蓮大聖人は、大慈悲を起こして、その罪障消滅の法を我々にお示し下さったのです。
 それは、日蓮大聖人御図顕の「御本尊」に「南無妙法蓮華経」と唱え、自分のおこなった非道を悔い改め、正法をひろめてゆくことを誓うことによって、その罪障消滅ができ、さらには、己自身の自己実現(宿命転換)も可能にすることが、できるのです。 あきらめては、ならない!.